コレクション

青磁碗(「東窯」タイプ)

せい じ わん (「とう よう」 たいぷ)

  • 高4.8㎝ 口径14.4㎝ 底径4.4㎝
  • 北宋 10~11世紀
No.21038

小山冨士夫、長谷部楽爾が「東窯」とした碗の類品であるが、常盤山文庫所蔵の他の二点の「東窯」タイプの碗と比較すると、やや異なる。全体に薄作りであるものの、口縁にやや厚みを感じ、釉色も青さに欠け灰みを帯びる。高台の作りにおいて、高台内に砂粒の付着がある点、外側角を落とすという処理、高台際に刃物の痕が残る点はほか二点と同じであるが、他二点が畳付きから内側に斜めに直線的に削り込んでいるのに対し、この碗は段状を呈している。見込み内側面にカンナ痕のようなあとがあるのも特徴的である。

 「東窯」とは、1940年代、現在ほどの考古学的発掘成果がなく、汝窯、耀州窯など文献上に記された窯名と実作品が整理されずに混在していた中、小山冨士夫が北宋の官窯とは何かを考えたとき、解決の糸口として求めた文献上の窯名である。小山は「淡い釉色」という点を重視して青磁を抽出、一連の青磁に「東窯」の名を与え、北宋宮廷にかかわる青磁と考えた。その後考古学的発掘の進展により、汝窯、耀州窯の具体的作品が次々と明らかになり、小山が「東窯」として区別した青磁は耀州窯に組み込まれるようになった。北の青磁をすべて耀州窯の展開の中で解決しようとする流れの中で、1980年代、長谷部楽爾はかつて小山が「東窯」とした淡い釉色の青磁の碗、および高台の作りや形のバランス、釉調などに共通項のある類品をあらためてとりあげ、耀州窯と区別した。2006年には台北故宮で行われた汝窯に関するシンポジウムにおいて、汝窯青磁の登場を耀州窯の展開の中でとらえるには無理があると指摘、「東窯」の青磁を示しながら、五代から北宋にかけて北における幅広い青磁生産の可能性を唱えた。
 五代から北宋にかけて北で青磁を焼いた窯は、現時点では耀州窯しか詳細な報告がない。本作のような碗は、これまでに五代耀州窯の作品とされてきたが、実際耀州窯の発掘報告書に出土例を求めてみると、器形としては、耀州窯の五代期とされる黄堡窯にわずかに見いだせるが、全体からすると極めて少なく、また北宋期とされる耀州窯につながった様子もない。一方で、出土資料をたどると、こうした小さな高台から直線的に開く浅い碗で、白化粧のない淡い釉調と報告されるものは、10世紀末から11世紀第1四半世紀の墓から出土する。耀州窯が一大青磁生産地であることは事実として、そこにこれらの類品の出土が少ないことを見ると、北における青磁生産については耀州窯に限定することなく広がりをもって考えるのがよいのかもしれない。北に存在した複数の青磁窯それぞれの中で青磁に求める方向が分岐し、北宋末の汝窯に至る方向が現れた、本作もその過程で生まれた一つかもしれないと思わせる課題豊富な作品である。

掲載図書
『常盤山文庫中国陶磁研究会会報5 青磁「東窯」』公益財団法人常盤山文庫、2013年(解説 佐藤サアラ)
『常盤山文庫創立80周年記念名品選 蒐集のまなざし』公益財団法人常盤山文庫、2023年(解説 三笠景子)